今回はBellevue Children’s Academyで行われた中島聡氏の講演会のレポートです。講演会場のBellevue Children’s Academyは100人以上は入れるような広い会場で、SIJPが主催した中で今回が一番大きな講演会となりました。会場をご提供いただいたBellevue Children’s Academy様、ありがとうございました。
まずは受付を済ませ、講演が始まる前に軽食で腹ごしらえ。から揚げ、焼きそば、春巻きという日本人のソウルフード的な軽食がうれしいです。隣に座った人と自己紹介&スモールトークをしながら開演時間を待ちます。開演時間間近になると会場の席はほぼ満員になり、ざっと数えただけで100名くらいの人たちが入っています。
さて開演時間になり、早速中島氏の登場です!今回は司会者と中島氏のトーク形式で、中島氏がアメリカでの起業に至るまでの経緯を、「学生時代」「マイクロソフト時代」「UIEvolution時代」の三本立てで語っていただきました。
「学生時代」
話は中島少年の小学校時代までさかのぼります。小学校低学年の頃から、理科と算数の成績は常に5、それ以外は2か3という典型的な理系人間の片鱗を早々と見せつけ、小学校5年生ですでに高校受験用難問集を解いていた中島少年。中学時代は、新学期に配られる理科と数学の教科書を漫画本のようにその日のうちに読破し、理科の先生に薦められた「NHK高校通信講座」を見る毎日を送っていたそうです。
早稲田付属高校時代の数学部で初めてプログラミングと出会うことになりましたが、当時プログラミングへの印象はあまりよくないものでした。そして高校2年生のときに、親戚のおじさんが持ってきた「これからはマイクロコンピューター(今で言うところのパーソナルコンピュータ)の時代だ!」という記事に触発され、「これからはマイクロコンピューターの時代」→「マイクロコンピューターをやれば儲かる!」という予想のもと、当時の高校生にとっては大金の8万円を親から借金し、当時は組み立てキットで販売されていたマイコンを、半田ごてを使って製作しました。
しかし当時は中島少年にとってのプログラミングは、「マニュアルどおりに数字を入れると何かが動く。でもプログラミングが何だかわからない。」という手探り状態でした。でも1ヶ月もすると、「コンピュータってbyteを一度に全部見れずに、一個ずつしか見れないんじゃない?」と気づき始めました。それは人間だったら、「ステーキのにおいをかぐ→ステーキのイメージを思い浮かべる」のが、コンピュータは、「ステーキのにおいをかいでも、ステーキのイメージを思い浮かべられない」のと一緒のことなんだとひらめきました。
「NTT研究所からマイクロソフト時代」
早稲田大学修士課程終了後、教授の推薦を受けNTT研究所に入社する中島氏。しかし予想に反して仕事はプログラミングすることではなく、下請け会社に出すプログラミング用のフローチャートを作るだけ。高校2年生からプログラミングのバイトをして、当時すでに親の収入を超えていた(でも親にちゃっかり食べさせてもらっていた)中島氏にとっては、フローチャートを基にプログラミングしても意味がなく、プログラミングは自分で実際書かないとダメなことは身にしみてわかっていました。
そこで上の人にフローチャートはダメだと抗議しても、「お前は新人だから黙っとけ!」と一蹴されて終わってしまいました。このとき中島氏は仕事への失望と同時に、新聞でマイクロソフトが日本法人を立ち上げることを知り退社を決意しました。
退社するためNTT研究所の室長に辞表を出したところ、研究所と大学を巻き込んだ前代未門の大事件に発展し、大問題になってしまいましたが、やっとのことでNTT研究所を退社することができました。
そして1986年に中島氏はめでたくマイクロソフト日本法人に入社、そして3年後の1989年には当時2000人くらいしかいなかったマイクロソフトの本社に転勤となりました。
当時のマイクロソフトは、仕事面で言えば、仕様書関係なく「やったもの勝ち」「コード早く書いちゃったもん勝ち」という社風で、どんなに忙しい毎日でもWindows95を立ち上げた頃が一番楽しかった時代だったそうです。
その後OS開発に飽きた中島氏は、OS開発部門所属にもかかわらず、IEブラウザーを作っているチームに勝手に手伝いに押しかけ、その上チームがまだIE2.0を開発中なのに、Netscapeが3.0を開発中だからと、いきなりIE3.0を開発させて欲しいと交渉し、誰にも頼まれてないのに一人でIE3.0を作り始めてしまいました。
結果的に中島氏のIE3.0の登場によって、Netscapeのマーケットシェアを70%から30%に引き下げたので、自分の本来のOS開発の仕事をしていなくても誰からも文句を言われることはありませんでした。
しかしマイクロソフトがだんだん大きくなるにつれ、会社の方針と中島氏の信念にずれが生じ始めていました。ビルゲイツがミーティングを開いたときに、中島氏が
「計画性のないイノベーションをしないとダメです。3人規模のチームを100や200作ってそれぞれ勝手にイノベーションをさせて、その中のひとつが成功すればいいじゃないか。でないとネットの時代に勝てません。」
と提案すると、ビルゲイツは完全否定し、
「5年先を見て、人を300人投入して、マイクロソフトでしかできないことをやる。計画性のないイノベーションは、ベンチャーにやらせればいい。そしてもしイノベーションに成功したベンチャーが出たら、そのベンチャーを買収すればいい。」
と真っ向からビルゲイツと意見が食い違いマイクロソフトの方向性に失望してしまいました。
そこで当時マイクロソフトでナンバー4だったブラッドに相談すると、自分がベンチャーキャピタルを始めるので一緒にやらないかと誘われて2000年にマイクロソフトを退社することにしました。
その後中島氏は仕事柄いろんなベンチャーのビジネスプランを見る機会がありましたが、どのビジネスプランにもガッカリして、「これだったら自分でやったほうがいいのでは?」と自分でビジネスを立ち上げることにしました。
「UIEvolution時代」
さて自分でビジネスを立ち上げる決意をした中島氏でしたが、経営経験ゼロ。そこで知り合いに相談すると、
「弁護士だけはケチるな」
とアドバイスされました。そして自分でビジネスをしていくうちに、その意味が身にしみてわかるようになりました。
中島氏は知り合いのアドバイスに従ってこの分野に詳しい一流の弁護士を雇うことにしましたが、こっちがお客なのに
「うちはビジネスプランがいい客としか仕事をしない。」
といきなり上から目線で対応されてしまいます。そしてお金がないならベンチャーキャピタルが集まるまで弁護費用はツケでいいから、会社の2%くれと提案されたりと驚きの連続でした。
さらにこれから中島氏とその弁護士と、投資家集めのための猛勉強が始まりました。例えば起業したときの株については、Preferred Share(優先株)という、もしもの場合は投資家が一番先にお金を引き上げる権利がある株を投資家に与え、中島氏は一般株という何の優先権もない株を与えられことや、起業家と投資家の関係としては、中島氏は自分の人生やアイデアや情熱をビジネスに賭ける代わりに、投資家はビジネスにお金を援助し、お互いが利害関係を持っていることを勉強しました。
日本の投資では、第三機関に会社の価値を決めてもらい投資額を決めるそうですが、アメリカではアイデアと情熱だけで投資家が会社の価値を見出せば、ポンとお金を出してくれるのです。まさに交渉次第だとアメリカの投資家の柔軟さを学ぶことととなりました。
起業後の中島氏のCEOの一番の仕事はとにかく資金集めです。会社が潰れそうになったことも何度もあり、役員会議で自分の給料と重役の給料のカットを提案しましたが、重役たちはそれを拒否し、結局自分の給料をゼロにして、社員の人数も三分の一カットせざるを得なかった苦い経験もあります。中島氏にとって、今まで一緒に会社経営のために戦ってきた戦友だと思っていた重役たちとの体温差にガッカリしてしまった瞬間でした。
それでも会社は下降の一途をたどり、ついに中島氏は自分個人のお金をビジネスに突っ込み始め、この時点で投資家は中島氏を見放し、投資金を回収することだけを考えていました。
にっちもさっちもいかなくなった中島氏は、商社の投資部門に勤める大学時代の友人に投資をを依頼します。
2004年初め、アスキー時代のコネでやっと見つけた投資先がスクエアエニックスです。スクエアエニックスの和田氏とアメリカの投資家との顔合わせのミーティングの席で、和田氏がUIEvolutionを買っても良いとポロっと漏らすと、投資家たちの目の色が一気に変わりました。
これまでは潰れるのを待つだけで、投資金の回収を早く済ませたいと考えていた会社がスクエアエニックスに売れるかもしれないことで、投資家たちは「早く売れ売れ」コール、当時営業部門だったアメリカ人社員は、営業をストップさせ、周りからのプレッシャーで中島氏は会社を売らざるを得ない状況になってしまいました。
買収後の2007年にスクエアエニックスの子会社としてMobile Middlewareを作っていたUIEvolutionが再び経営難になり、スクエアエニックスから潰すしかないと言われたので、それなら安く譲ってくれるように中島氏は再びUIEvolutionを買い戻しました。その後中島氏はUIEvolution のCEOにはならずに、株主取締役に納まり毎日プログラミングに没頭しています。
中島氏からのアメリカで起業する人へのアドバイス:
「弁護士雇うときはケチるな!」
個人レベルのアドバイスは、日本的な「お受験→一流大学→上場企業内定→一生安定」というイージーモードな人生打ち破ること。企業レベルでのアドバイスは、企業の経営陣はイノベーションを唱え危機感だけは持っているが、実際は何も手を打たない古い体質を打破するのが大切だと言っていました。
それに対しアメリカでは、無駄な仕事(例えばコピー複合機のドライバの開発や保守など)をやらせるとどんどん人が辞めていく(特に優秀な人材から)という人材の流動性があり、その結果古い企業が潰れて、新しい企業がどんどん台頭します。このように常に企業は人材価値を高め続けることが大切だと語っていました。
次は会場からの質問コーナーです。例えば中島氏にこんな質問が投げかけられました。
アメリカで起業した中島氏の決断力は何に基づいているのか気になるところです。
Q:決断力について何を軸にしているのか?
A: いろんな情報源です。左脳で考える客観的数字でロジカルに考えても答えは出ません。
右脳に任せる。例えば、宝くじで儲けるか、株で儲けるかは、数字で比較できることで、左脳の仕事。でもマイクロソフトで仕事するか、ベンチャーを立ち上げるかは、数字では比較できない右脳の仕事。
Q:FacebookがWhatsAppを買収しましたが、190億ドルという評価額がおかしいと思いませんか?
A:WhatsAppの買収額をユーザー数で割ると35ドル前後。Facebookの評価額をユーザー数で割ると100ドル前後なので、Whatsapp買収により獲得するユーザーから見込める広告収入を考えると、そろばん計算上では、そうおかしくない額だと思います。
しかしFacebook離れが始まったと同時にInstagramが大きくなり、ユーザーを根こそぎ取られては困るので、FacebookはInstagramを買収しました。他に新しいSNSの会社が出現し、ユーザーのFacebook離れが始まるたびにその新興SNS企業を買収して生き残らなければならないので、今回のWhatsAppの買収も最後ではありません。
ひとたびFacebook離れが始まると、Facebookは買収を繰り返していくしかないので、人の流行り廃りに左右されると言う意味で危ない会社かも知れません。
それに比べてAmazonはすごいです。AmazonのFulfillment Centerは誰も追いつけないと思います。なのでAmazonにとってのWhatsAppは現れないと思います。Amazonはイケイケなので、将来的に世界のGDPの20%いくと思いますよ!
質問コーナーに続き、中島氏が現在開発中のVideo Shaderのデモがありました。
VideoShaderとは、普通の世界をアニメ化して、自分でフィルターを作ることができるアプリです。
こんな感じです。
面白い画像やビデオが撮れると、バージョン2からはネットワーク機能があり、世界中の人々と画像やビデオだけでなく、フィルターもシェアできるようになるそうです。楽しみですね!
iPhoneとiPad用のVideoShaderのダウンロードはこちらからどうぞ(無料アプリですよ!)
https://itunes.apple.com/us/app/videoshader/id790784885?mt=8
最後は交流会。中島氏の元には、ディズニーランドのアトラクションのような長~い行列が。中島氏と直接交流できるチャンスなんてなかなかありませんからね!
ということで、中島聡氏の講演会にはたくさんの方々に参加いただき、大盛況でした。
これからもSIJPでは楽しいイベントを企画していくので、是非参加をお待ちしています~!
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