ジェイムズ・スパーンさん講演会〜ニコ動って知ってますか?

今回は、6月14日にCourtyard Seattle Bellevue/Downtownで行われたジェイムズ・スパーンさんの講演会レポートです。この講演会はOkaeli Suite様、Mariko Mitsui John L. Scott様、JTB USA シアトル支店様、Ibuki Magazine様、コスモス歯科様、Ecore Global様、Bellevue Children’s Academy様にスポンサー協力していただいて行うことができました。スポンサーのみなさま、本当にありがとうございました。

 

この講演会はジェイムズさんの過去を振り返る形で始まりました。若いときから、おふざけが大好きというジェイムズさん。幼少期はお父様が米軍に勤務していた影響で、転々と引越しを繰り返していたそうです。お母様が日本人ということも、幼少期に日本に住んでいたということも影響して、大学在学中に早稲田大学に留学。その後、様々なネットワークを通じてセガで3年間、ゲーム開発者として日本で勤務。声をかけてもらい、日本で7年、アメリカで3年Microsoftに勤務。しかし、一生懸命生きるというジェームズさんの人生のテーマの中で、株をもらって生活していれば、現状維持でいい生活が送れる。でも、人生はお金ではないし、楽しさや自分の幸せにはつながらないと考え、次の職が決まっていないにもかかわらず、奥様と相談し、10年Microsoftに勤務するともらえる、Microsoft社の株を10株もらった一週間後に退職を決断したそうです。

 

ケータイでゲームをする習慣を作ったのはドワンゴ?!

1995年、川上量生氏(現ドワンゴ代表)が、日本Microsoft社に乗り込み、「IBS(川上氏が当時勤めていた会社)がなくなるから、明日から無職になります」と報告。しかし、Microsoftとしては、IBSのサービスがなくなるのは痛手。ということで、その場でIBS社のアメリカの株主を電話で説得し、ライセンスを受け、数ヶ月後に川上氏が中心となりドワンゴという会社を設立。その当時、ケータイですることは電話とメールだけでしたが、ドワンゴは「釣りゲーム」を提供。魚が釣れると、振動が起こる、いつ震えるか分からないという部分が当時は新しく大成功を収めます。それと同時に、テレビコマーシャルなど広告を広く展開し、ドワンゴという社名の認知度が上がります。その後も「業績は右肩上がり、でも次の新しい事業に挑戦していく」ドワンゴは、着メロの分野に進出し、成功を収めていきます。この成功を、ジェイムズさんは「柔軟性が高かったから」出来たと分析しています。

ソーシャルメディアと映像の融合

アメリカの市場でも近年にはテレビで映像を見る人と、オンラインで映像を見る人が半々になるとの予測が出ています。今となっては、普及しているのが当たり前に感じるインターネットやSNSですが、7年前は、日本で流行したmixiはまだ無名でした。そんなときに、ドワンゴはソーシャルメディアと映像を融合させるという画期的なアイディアでニコニコ動画を市場に提供しはじめます。

ニコ動の影響力は無視できない!

今年で三回目を迎えたニコニコ超会議。安倍総理や各政党の登場や、各映像配信局が、ニコ動にチャンネルを開設するなど、ニコ動を中心に今の若者にどうアピールする、メッセージを届けている。これは、映像でありながら双方向性のあるニコ動だからできること。日本では蓮舫議員の「2位じゃだめなんですか?」という発言で話題となった事業仕分けの生放送時には、事業仕分けの様子を全て放送しているニコ動から記事を書くメディアが出ることで、それまでは競合相手だった企業が、どうやって協力していくかという風にマインドが変わっていきます。

宇宙へのこだわり

また、宇宙や飛行機に思い入れのあるジェイムズさんは、半年ほどNASAに働きかけて、生放送の許可を得ます。さらに、毎日新聞の番組欄を購入し、24時間生放送の広告を出します。これにより、ニコ動が放送企業として認知されるようになっていきました。

これからについて

ジェイムズさんは常に自分の商品をどうよくしていくかということを考え、それにプラスして、世の中の変化に対応することや、自社製品のライバルは新しい自社製品だという考え方をしているそうです。また、これからはイベントに参加するなどして、社会に貢献していくことを考えているそうです。世界は狭くなっている、でも人とコミュニケーションをとることを大切にすること。一生懸命生きること、今ある時間と周りにいる人を大切にすることを大切にしてほしいというジェイムズさんのメッセージが込められた講演会となりました。

SIJP4 

講演会の次に行われたワールドカップサッカー観戦会のレポートは北米報知のサイトにあります。

次回は8月4日に古川亨(すすむ)さんの講演会を行います。ぜひご参加ください。

 

窪田良氏による「アキュセラのテクノロジーと上場までの軌跡」講演会&交流会開催!

今回はBellevue Children’s Academyで行われた窪田良氏の講演会レポートです。100人以上入る広い会場ですが席は全て埋まっていました。会場をご提供いただいたBellevueChildren’s Academy様、ありがとうございました。また、本を提供頂いた紀伊國屋様、ありがとうございました。

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左からSIJP会長今崎憲児氏、Bellevue Children’s Academyディレクター清水楡華氏、ゲストスピーカー窪田良氏です。

まず受付を済ましネームタグをペタリ。いつも通り講演会前に腹ごしらえです。今回も美味しそうな料理がたくさん並んでおり、皆さんおしゃべりをしながらお食事を楽しんでいました。そして7時ぴったりに講演会スタート。講演会の最後には窪田氏の著書『極めるひとほどあきっぽい』のプレゼントクイズが行われるというアナウンスがあり、嬉しいサプライズに会場はそわそわ。

「みなさん目を閉じてください。目の前が真っ暗になりましたよね。失明するということはこういうことなんです。」

友達や家族が見えなくなる、今まで当たり前に見えていた日常がなくなるということがどういうことか考えさせられました。もし失明を治す薬が発明されたなら、何万人という患者さん、その家族が喜ぶでしょうか。窪田氏はそんな患者さんを救う新薬開発に尽力されています。

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「治療法を見つけて患者さんを救いたい」

慶應義塾大学医学部で眼科学研究により博士号を取得。その研究課程で緑内障原因遺伝子であるミオシリンを発見、のちに「須田賞」(日本の眼科研究者に与えられる賞)を受賞。ヒトゲノム計画が最盛期だったため、ミオシリン発見の功績は非常に大きくいろんな有名大学からオファーをいただきました。大学訪問の際に研究環境に惹かれたワシントン大学に2000年より眼科シニアフェローおよび助教授として勤務を決めます。その際に周囲の人々は世界最高峰であるハーバード大学を薦めたそうです。しかし窪田氏は「人と違う発想をする」というモットーでありワシントン大学を選択しました。この選択が後に窪田氏の岐路になります。2000年以降は再生医療が盛んになります。再生医療で最先端分野は骨髄移植ですが、その骨髄移植分野での権威はワシントン大学でした。ワシントン大学では網膜幹細胞における再生医療の研究に取り組んでいました。その研究から神経細胞を長期的に培養できる技術を発見し、 窪田氏は「失明を根絶する治療法の開発につなげたい 」と考え起業を決意します。その技術をもとに2002年に自宅の地下室で起業しました。

「新薬開発の難しさ」

新薬開発には多大なコストと時間がかかります。研究、開発、市場に出るまでの過程には約12年かかると言われています。研究の段階では10,000から30,000の化合物を作り、合成するという作業を繰り返します。ほとんどを手作業で行うそうで、膨大な時間がかかります。その中から反応が見られた約10から20の化合物を試験し、数を減らしていきます。実際に反応が見られる化合物を作れる確率は非常に低いのです。その後は臨床試験をクリアしなければなりません。一般的にフェーズ1では健康な一般男性に。フェーズ2では開発する薬の対象となる疾患患者の方に、フェーズ3では対象疾患患者を対象に大規模臨床試験が行われます。安全性が確立していない新薬に関しての臨床試験被験者を集めるのは難しく、この過程で非常に時間がかかる企業が多いと窪田氏は話します。アメリカでは医学生は学部入学の際、医学分野に関するボランティアの参加が必須になります。新薬開発に関しての国民レベルでの認識の変化が求められており、薄く広くのリスクテイクは避けられない現状であるからです。また薬剤の開発費は年々上がってきており政府予算を圧迫しているというのも現状です。そもそも今までの新薬開発偶発的な化合物の発見に頼ってきたものが多かったそうです。そのためゼロからの発見には莫大な時間と予算がかかるのです。

「人に関する不確かな知識」

バイオテクノロジーは大きな市場規模に関わらず十分な治療法が確立されていない分野が多いのが現状と窪田氏は語ります。人に関してまだ不確かな知識が多く、治療が追い付かないのが現状です。例えば網膜疾患領域市場。(網膜は光を感じるフィルムのような役割を担っており、異常が生じると失明の恐れを伴う可能性もでてきます。一度その機能が失われると今の技術では再生することはありません)独立系調査会社Visiongain社によると 2012年の網膜疾患領域市場規模は51.3億ドルですが2024年には約166億ドルになる見込みと言われています [1]。高齢社会が進むなか、目に関する新薬の重要性はますます高まっています。

「バイオベンチャー企業の必要性」

大手製薬企業とベンチャー企業で新規化合物の承認数を比較するとベンチャー企業の方が勝っているそうです。また研究開発費を比較してみても大手製薬企業は平均で年間500億ドル、対するベンチャー企業は平均で 280億ドルと差は歴然です[2] 。なぜベンチャー企業から新薬は生まれやすいのか。ベンチャー企業は既成概念や合理性にとらわれずイノベーションを大事にしているからだと窪田氏は語ります。大手企業は役員会議を通すので合意を得やすいアイデアしか投資を得られません。しかしベンチャー企業はユニークな価値観を持ちアイデアに同意してくれる投資家が1人でもいたら開発にとりかかることができるのです。イノベーションの創造のカギは3つ。・多様性を尊重すること・価値ある失敗を許容すること・信頼関係を構築することです。

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「起業家としての7つの条件」

10年継続するのは難しいと言われていたバイオベンチャーにおいて成功されている窪田氏が起業家として求められる7つの条件を教えてくださいました。

・忍耐、粘り強さ

・エネルギーと情熱

・リスクの許容能力

・明確なビジョン

・断固たる信念

・高い柔軟性

・チャレンジ精神

窪田氏の明確なビジョンは「世界から失明を撲滅すること」。リスクの許容能力とは、無駄な投資に終わるかもしれないけれども、成功した時には大きな達成につながるリスク。そのアップサイドを見極めてリスクに挑戦してみようという意識をもつこと。単にリスクを取ればいいのはなく、リスクへのバックアップ、つまり致命傷を負わないようにプランB、プランCを用意しておくことも大切だということでした。

「アキュセラ・インク社」

窪田氏のアキュセラ・インク社は世界中で数百万人が罹患している視力を脅かす眼疾患を治療または進行を遅らせる可能性のある革新的な治療薬の探索および開発に取り組んでいる、臨床開発段階のバイオ製薬企業です。新規技術の構築とイノベータ―としての地位を確立しました。

・通常、バイオベンチャーを地下室で設立するのは不可能であると言われていた

しかし、アキュセラは地下室で設立された

・通常、まったくの新規開発候補薬の同定は2年では不可能であると言われていた

しかし、アキュセラはそれを達成した

・通常、薬理学的にヒトの視覚サイクルを調整することは不可能であると言われていた

しかし、アキュセラはそれを達成した

・起業しても、バイオベンチャーは10年継続するのは困難であると言われている

しかし、アキュセラはそれを達成した

・前例のない米国企業の東京証券取引所マザーズ市場への単独上場は難しいと言われる

しかし、アキュセラはそれを達成した

「東京証券取引所マザーズ市場への上場」

2014年、アキュセラ・インク社は東京証券取引所マザーズ市場へ米国企業第一号として単独上場を果たします。そもそもアキュセラは日本の投資家から設立当初より投資を受けていたそうです。日本人がアメリカで起業する際は日系移民からの投資、または日本からの投資が多いそうです。実際アメリカに居続けるかわからない日本人にアメリカ人が投資するというケースは少ないそうです。アメリカにある企業が上場するということは日本での規制とアメリカでの規制の両方をクリアせねばなりません。日本は上場するまでが厳しく、アメリカは上場してからが厳しい現状がありコンプライアンスを常に更新し続ける必要があるそうです。

約1時間にわたる講演会はあっという間に過ぎ、参加者からの質問タイムが始まりました。事前に募ったオンラインを通じての窪田氏への質問では

・スタートアップ企業の人材に求められる気質は?

・日本とアメリカの株式市場の違いは?

・バイオベンチャーにおけるIT技術利用の展望は?

などなどたくさん寄せられました。

また「窪田博士への質問がある方は挙手をお願いします」というアナウンスとともに続々と上がる手。皆さん窪田氏の話に興味津々でした。

その後は待ちに待った紀伊國屋様の提供による窪田氏の著書『極めるひとほどあきっぽい』のプレゼントクイズ。我こそはと目を輝かせて質問を待つ学生の姿が目立ちました。中には講演会では触れなかった「好きなスポーツは?」という難問も。しかし「テニスです」と自信満々に答える姿が見れました。窪田氏が出演なさったテレビ番組「夢の扉+」を事前にチェックしてきたそうです。正解者は窪田氏と記念撮影。皆さんとても嬉しそうでした。

[1]: Visiongain report December 2013: Macular Degeneration (AMD) and other Retinal Diseases: World Drug Market 2014-2024.

[2]: :  The Burrill & Company 25th Annual Report on the Life Sciences Industry, Page 33.

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窪田氏との記念撮影

 

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交流会では窪田氏と話すために長蛇の列が

窪田氏は薬剤ベンチャーについて分かりやすく説明くださり、医学に関して知識のない私たちでも理解を深めることができました。また起業家として、イノベータ―としてのエッセンスもたくさん教えていただき皆さんいい刺激を受けられたのではないでしょうか。

今回のSIJPの講演会も大成功でした。

次回6月14日の講演会はニコニコ動画の北米展開を担当するniconico.comの代表取締役社長James Spahnさんの講演会と交流会とサッカーワールドカップの日本戦観戦会です。参加お待ちしています!

詳しくはhttp://sijp.orgでお知らせします。

 

著:箕浦 志帆

スコット津村氏による「型破りExecutive Producerによるゲームプロデュース裏話」講演会&交流会開催!会場は大爆笑の渦!

今回はベルビューでPSP.Incで行われたスコット津村氏の講演会のレポートです。いつものように受付を済ませ、会場に入るとすでに満席です。ざっと会場を見渡すと、学生さんや社会人の人たちだけでなく女性の参加者も目立ち、参加者の幅の広さが窺えます。講演会のたびに女性参加者の数が増えてきてるような印象を受けていますが、これからもSIJPではいろんな方の参加を絶賛大歓迎中です!

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さて講演会の前のお約束の腹ごしらえ。今回の軽食はなんとゴージャスなお寿司!日本人のDNAが騒ぎ出すような握りずしや巻き寿司をほおばりながら、開演前のプチ交流会です。会場のサイズがちょうど良く、お隣の人とも交流しやすい雰囲気。

プチ交流会後はいよいよ講演開始です。椅子の数も足りなくなり立ち見が出るほどの満席の中、待ちに待ったスコット津村氏の登場です!ロマンスグレーの似合うダンディーな印象のスコット氏を前に、会場からの暖かい拍手でお出迎えです。スコット氏は御歳72歳なのですが、まったくそんな風に見えず非常に若々しい印象です。そんなスコット氏が社会に出て50年間歩んできた波乱万丈の人生を中心に、三部構成のインタビュー形式の講演会の始まりです。どんな面白いお話が聞けるのでしょうか。

大学卒業後は元祖フリーター生活、そしてスコット氏のダンディーさの秘密とは?

スコット氏は大学卒業後10年間でいろいろな仕事をし、今で言うところの元祖フリーターのような生活をしていました。当時はネットもなく、新聞の就職欄にいろいろな仕事の求人があり、ワクワクしながら多岐に渡る仕事に挑戦して、おそらく18回は仕事を変えました。しかし単なるアルバイトでなく正社員としての仕事で、商品相場のセールス、アパレル、貿易小物、運転手、配管、製缶、土木、建築、店頭販売、内装、事務用品などなど、転居も12回しながら興味という目的だけで仕事を変えていました。

ひとつの仕事が大体わかってくると次の仕事を探し、そのうち自分の将来に向かって続けるべき仕事が見つかるかもしれないといろいろな仕事の可能性を模索していました。この頃からスコット氏の絶え間ない好奇心は培われていたようです。

そんなスコット氏の最初の仕事は、神戸外国倶楽部でのバーテンダーの仕事でした。神戸外国倶楽部とは、1869年(明治2年)設立の外交官たちの社交クラブという歴史あるクラブです。しかし来る日も来る日もバーテンとして仕事はさせてもらえず、ひたすら氷割りとビール運びの下っ端仕事をする毎日でした。しかしそんな下っ端仕事の中でも、外交官の立ち居振る舞いや付き合い方などを学び、一般人では経験できないような違う世界を垣間見ることができる貴重な体験をしました。

ある日神戸外国倶楽部の大広間でパーティーが開催されたときのこと、スコット氏は衝撃的なある出来事に遭遇しました。その部屋は重厚な雰囲気で、床が油でピカピカに磨き上げられていました。その場所でとてもかっこいい紳士のイギリス総領事がしゃがみこんで子供と話をしていました。ところが子供が領事の体を押してしまい、彼は黒光りする床にしりもちをついてしまいました。そして高級なスーツのおしりには油がベットリと付いてしまったので、すぐに立ち上がり、それを拭き取るものかと思っていました。

ところがスコット氏の予想に反して、領事はそのままその子供と床の上で遊び始めたのです。スコット氏はこの領事の何があっても動揺しない度量の深さと、紳士的な振る舞いにとても感動し、騎士やSirという名の付く人々に深い興味を持ち、スコットランドの詩人、小説家であるサー・ウォルター・スコットの中世時代の騎士の振る舞いやその哲学が書いてある詩や小説を読んで、自分もこうありたいと憧れるようになりました。どうりで現在のスコット氏がとてもダンディーな雰囲気を醸し出しているわけですね。

ちなみにスコット氏の日本名は「ケンジ」なのですが、神戸外国倶楽部での出来事から20年後に渡米する際、尊敬する友人からたまたま「スコット」という名前を付けてもらい、それ以来「スコット」を通名として使い、様々な公的書類にも「Scott Tsumura」と表記するようになったそうです。何か名前も運命的だったのですね。

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ゲーム業界に入ったキッカケは、裏社会?!

時が経ってスコット氏がペンキ屋で働いていたころのことです。以前建設業の職人派遣の会社を一緒に作っていた友人から1976年頃のある日こんな電話がありました。

「けんちゃん、おもしろい仕事があるよ!裏社会にもある程度関係してくる仕事だけどね!」

裏社会関係の仕事と言えば、借金取立てや総会屋など真っ黒なイメージしかないのですが、一体スコット氏の友人はどんな仕事を持ってきたのでしょうか?

友人が持ってきた裏社会関係の仕事とは、電気回路や確率などの専門家を雇い、ドイツ製のメダル式ゲーム機ロタミントに似たような機械を自分たちで作り、それをそういう連中に売ることでした。

巷ではロタミントというメダル式ゲーム機を輸入して100円玉で遊べるように改造し、当たれば100円玉が払い出されるような機械が出回っていました。そしてそれを喫茶店などに貸し出して、利益を喫茶店と折半する商売が存在しました。改造ロタミントは、驚くことになんと当時で一台一か月150万円という驚異的な売り上げを叩き出すスーパー賭博機だったのです。そのような機械のレンタル業を営んでいた人たちの多くが荒稼ぎをもくろむ裏社会の人々だったということです。そんなゲーム機(改造前の機械そのものは模擬コイン(メダル)を使う合法ゲーム機)を開発して売るのはなかなかスリリングな仕事だったそうです。

そんな魔法の賭博機、改造ロタミントとはパチンコのような箱型をしていて、並んだ数字を当てるというシンプルなものでした。こんな感じで、的が並んだルーレット風、あるいは検眼機のようにも見えます。ロタミントビジネスは順調でしたが、1年後に風営法が改正されてからは現金IN現金OUTは違法で賭博ができなくなり、このビジネスも終焉を迎えてしまうのです。

風営法改正後、ロタミント系ゲーム機は規制の流れを受けて消えていき、その代わりに健全なアーケードゲーム機が登場して同じ場所に置かれるようになりました。そしてこの頃から町にアーケード場が設置されるようにもなったのです。これにビジネスチャンスを見出し、スコット氏はアーケードゲーム業界に足を踏み入れることになります。

ここでちょっと昭和の話になりますが、1976~1977年にATARIのブロックくずし、1978年には喫茶店のテーブルでインベーダーゲームが登場しました。ロタミントからアーケードのテレビゲーム、テレビゲームから任天堂の家庭用ゲーム、そして家庭用ゲームから現在の携帯型ゲーム機やスマートフォーンとゲームの形は様々に進化してきたのです。

その後スコット氏は、カプコンの辻本氏が最初に立ち上げたIPM(その後アイレムに改名)という会社で海外部とゲームソフト開発部を立ち上げ、ムーンパトロール、10ヤードファイト、ジッピーレース、スパルタンXなどを作り、やがて移植したスペランカーやロードランナーなど名作を残すことになったスコット氏ですが、当時はアーケードゲーム業界立ち上げ時の尾を引いて、たびたび裏社会の人たちとゲーム機設置の場所取りでぶつかり合うこともあったそうです。

1983年にはファミコン登場。ドンキーコングなど、任天堂もアーケードゲームを作っていましたが、任天堂の山内氏はアーケードゲームを止めて、家庭用ゲームにいこうと方針を決定。結果、ドンキーコングやマリオブラザーズなどでゲームを家庭に持ち込むことに成功しました。

その後1987年にPCエンジン(NECの画期的CG機能を持つ家庭用ゲーム16ビット機)が発売されました。既にファミコンで家庭用ゲームのマーケットはできていたし、この高性能ゲーム機を見て、業務用のアーケードTVゲームではなく家庭用ゲームの時代が必ずくると確信したそうです。

その頃スコット氏はR-Typeの開発から外れて、新規事業やライセンスの仕事をしていたのですが、NECとハドソンからアーケードで大ヒットしたR-TypeをPCエンジンに載せたいと要望が来たので、是非家庭用のPCエンジンにR-Typeを移植したいと会社に提案しましたが、動作もグラフィックも同等のものが家庭用になれば、アーケード業界はつぶれてしまうと猛反対されました。

世の中が変わると信じて何とか会社を説得し「どうせやるならアーケードと同じクオリティの家庭用ができるんだったらいいよ。」と言われて、ハドソンと共に必死に移植開発し、その結果ほぼ完璧な家庭用ゲーム機版R-Typeができました。これがスコット氏にとっての日本での最後の仕事でした。

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渡米後にずっとアメリカに残る決心をしたスコット氏

スペランカーやロードランナーのライセンスの縁で親しくなった米国のブローダーバンド社から日本のPCゲームをIBMやアップルに移植して自社の販売網で欧米向けに売りたいと要請があり、スコット氏は日本の企業を一社づつ訪問して出資を募り、晴れてサンフランシスコにブローダーバンドと日本企業13社のジョイントベンチャーの立ち上げに関わりました。そしてその設立と社長として会社運営のため、日本からアメリカに移りました。新会社の目的は、参加した13社からソフトを仕入れ、アメリカで移植してブロードバンド社から発売することでした。

当初スコット氏のアメリカ滞在は1年くらいの予定でしたが、そんなスコット氏がアメリカでもうちょっとやりたいと思ったキッカケはテトリスです。テトリスは1984年にソビエト連邦でアレクシー・パジトノフにより開発された誰もが知る有名なゲームで、日本では1988年にセガがテトリスをアーケードで出して大ヒッしました。そして1988年にはBPSからPCとファミコン版が発売されました。

1989年に任天堂ゲームボーイが出ると、BPS日本のヘンク・ロジャース氏にBPSがファミコンで開発、発売したテトリスをゲームボーイで売りたいと任天堂から提案があり、テトリスの版権のことでヘンク氏が崩壊前のソ連に飛び、アレクシーを探し出します。しかし当時ソ連は共産主義国家なので、誰かが何かを発明したとしても、権利は個人のものにはなりません。当然ながらテトリスの大元の権利を所持していたのは、アレクシーでなくソ連の国務機関アカデミーソフトです。そして、アカデミーソフトからの委託でライセンス業務を担当していたのが、同じくソ連の海外貿易協会ELORG(エローグ)という組織です。

ヘンク氏は、当時エローグからテトリスのライセンスを受けていたとするアンドロメダソフト、ミラーソフト、アタリ、テンゲンがIBMのPCライセンス契約はしたが、PC以外の契約はしていないとエローグから情報を得ました。そこですかさず任天堂アメリカの荒川社長、ハワードリンカーン氏をモスクワに呼び、携帯用を含む家庭用テトリスの世界独占開発販売権の契約をエローグと結ぶことができました。この独占契約のため、セガは任天堂にメガドライブ(16ビット機)のビジネスチャンスを潰されて、それ以降セガファンと任天堂ファンに分かれて対立することになります。

その頃ヘンク・ロジャース氏と共にBullet-Proof Software(BPS USA)社をシアトルに立ち上げたスコット氏によると、このソ連でのライセンス契約時には様々な苦労があったそうです。1991年ソ連崩壊、共産党解体後のロシア経済はどん底で、スコット氏がアレクシー氏とともに他のテトリス開発関係者に会いに行く際には、マシンガンを持った護衛を雇うほどでした。モスクワ駅には浮浪者がたくさんたむろしていて、スコット氏はスーツケースごと追いはぎに遭いそうになったり、セントピータースバーグへの寝台車に乗ったときには部屋の鍵をピッキングされないように、鍵を固定する木製のサイコロのようなものを車掌からもらったりしました。さらに関係者の一人である大学教授に会いに行ったときには夜になって、建物の中の電気がなく真っ暗で中がまったく見えないので手探りで教授の部屋までたどり着き、部屋を開けると、ろうそくの火で明かりを灯していたというくらい混乱した時代でした。

裏社会にかかわる商売からアーケード、そして家庭用ゲームへと変化していき、その後テトリスとの出会いとゲーム業界の始まりからすべてを経験してきたスコット氏。レポートには書ききれないほど貴重な経験をされてきたのですね。アメリカへ移住以来勤め先を11社変え、転居も6回したそうです。今度また講演の機会があればそんな話も聞きたいものです。

スペランカーについて

スコット氏がスペランカーに興味を持った理由は、地底探検というテーマがおもしろかったからだそうです。

会場からは、

「どうしてロープがちょっとずれると死ぬのか?」

「どうして階段を一段踏み外しただけで死ぬのか?」

というその理不尽な死に方に納得のいかない参加者から質問の嵐が。そんな質問への答えは、「わざとスペランカーをファミコンに移植するときに難しくした。」でした。ではなぜ難しくしたのか?その理由は、家庭用ゲームとアーケードゲームとの比較に起因しています。

「家庭用は買ってしまえばゲームは自分の物になり何時間でもプレイできるけど、アーケードは時間制限やライブ数があり、ゲームオーバーになればコインを追加投入しなければならないので、プレイを続行できるシステムが全く違うのです。そしてアーケードゲームは100円入れてから1~2分でゲームのおもしろさや、またチャレンジしたいという気持ちをプレイヤーに持たせないと商売にならないゲーム作りの厳しさがあります。当時の家庭用ゲームはリプレイしたくなる仕掛けが生ぬるく、これからもっとやりたい、挑戦したいという気持ちが湧かなくなるものが多かったのです。」

「スコット氏のゲームは比較的難しい」というコメントが参加者からありましたが、それに対してスコット氏のゲームプロデューサー哲学は、

「ゲームはプレイヤーが学習して、クリアして達成感を得るのが目的です。最初はすぐゲームオーバーになりますが、何度もプレイする内にクリア出来る方法を会得し、その上自分なりの遊び方を創り出すこともできるのです。」

スコット氏自身は、プレイヤーとしてスペランカーは難しすぎるし、自分はプレイするのが下手だし頑張り屋じゃないから好きではないそうです。でも将棋のように外野でプレイヤーがどういう遊び方をしているかとか、プレイヤーの心情に興味があり、スペランカーを誰かがプレイしているのを見るのは大好きなのだそうです。

趣味の写真とスコット流撮影テクニック

さて第三部はスコット氏の趣味の写真の話です。スクリーンにスコット氏が撮影した写真が何枚か映し出され、一枚一枚の写真のエピソードについてお話していただきました。町で自分が気になる人、しぐさ、風景、光、影など被写体からシグナルが入ってきたようなものを撮影しているそうです。

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日本にいるときはライフル射撃をされていて、標的(被写体)があり、銃を構える(カメラを構える)、そしてトリガーを引いて撃つ(シャッターボタンを押して撮る)という点で、ライフルとカメラは似ていると二つの共通点を解説されていました。

ヨドバシカメラのサイトではTheWind from Seattleという写真エッセイを連載されていて、スコット氏の写真は下のリンクからご覧いただけます。どの写真もポストカードやポスターになってもおかしくない、芸術的ですばらしい作品ばかりです。さらにスコット氏はブログも開設されています。

ネットでは公開できませんが、講演会ではスコット流ストリートスナップ撮影オリジナルテクニックも公開され、その大胆な撮影手法に会場は大爆笑でした!

交流会&スペランカーデモ

講演会の後は恒例の交流会とスペランカーデモです。

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別室では実際にスペランカーがプレイできるスペランカーデモがあり、リポーターも挑戦してみました。

昭和の探検家と言えば川口浩ですが、スペランカーも負けていませんよ!しょっぱなに出てくる岩をどうやって突破するのかわからず地底をウロウロしていると、紫色のお化けが出てきて逃げ場もなく即死。さらに風雲たけし城ばりの大岩が容赦なく襲ってきたり、微調整を誤っただけでも理不尽(?)に即死して、噂どおりイライラMAX。マリオのような調子でプレイすると大間違いです。でもなぜかそのイライラが「絶対突破してやる!」という使命感に変わってくる不思議なゲームです。

ちなみにスペランカーをプレイしたことのない方はこちらの動画をどうぞ。思わず嫁さんプレイヤーのとまどいの声と、動画を見ている自分の声がハモりそうです。

【嫁の挑戦2】今度はスペランカーを嫁にやらせてみた【声入り】

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=6Sf_6Kf7dBM&w=420&h=315]

今回のスコット氏の講演会は大盛況でした。見た目はダンディーなスコット氏でしたが、講演中はおもしろい話をたくさんされるのでどんどん引きこまれ、会場は常に笑いに包まれていました。スコット氏の様々な仕事経験、絶え間ない好奇心、決断力、行動力、そしてバイタリティと、私たちの世代にとって学ぶことが多く、インスピレーションの種をたくさんいただきました。

さて5月の講演会は、シアトルで起業した眼科医窪田良氏の講演会と交流会です。5月16日(金)開催で、現在チケット好評売出し中です。お時間のある方は是非お越しください~!

http://www.eventbrite.com/e/seattle-it-japanese-professionals-tickets-9982757697

中島聡氏による「米国での起業体験について」講演会&交流会開催!

今回はBellevue Children’s Academyで行われた中島聡氏の講演会のレポートです。講演会場のBellevue Children’s Academyは100人以上は入れるような広い会場で、SIJPが主催した中で今回が一番大きな講演会となりました。会場をご提供いただいたBellevue Children’s Academy様、ありがとうございました。

まずは受付を済ませ、講演が始まる前に軽食で腹ごしらえ。から揚げ、焼きそば、春巻きという日本人のソウルフード的な軽食がうれしいです。隣に座った人と自己紹介&スモールトークをしながら開演時間を待ちます。開演時間間近になると会場の席はほぼ満員になり、ざっと数えただけで100名くらいの人たちが入っています。

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 さて開演時間になり、早速中島氏の登場です!今回は司会者と中島氏のトーク形式で、中島氏がアメリカでの起業に至るまでの経緯を、「学生時代」「マイクロソフト時代」「UIEvolution時代」の三本立てで語っていただきました。

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「学生時代」

話は中島少年の小学校時代までさかのぼります。小学校低学年の頃から、理科と算数の成績は常に5、それ以外は2か3という典型的な理系人間の片鱗を早々と見せつけ、小学校5年生ですでに高校受験用難問集を解いていた中島少年。中学時代は、新学期に配られる理科と数学の教科書を漫画本のようにその日のうちに読破し、理科の先生に薦められた「NHK高校通信講座」を見る毎日を送っていたそうです。

早稲田付属高校時代の数学部で初めてプログラミングと出会うことになりましたが、当時プログラミングへの印象はあまりよくないものでした。そして高校2年生のときに、親戚のおじさんが持ってきた「これからはマイクロコンピューター(今で言うところのパーソナルコンピュータ)の時代だ!」という記事に触発され、「これからはマイクロコンピューターの時代」→「マイクロコンピューターをやれば儲かる!」という予想のもと、当時の高校生にとっては大金の8万円を親から借金し、当時は組み立てキットで販売されていたマイコンを、半田ごてを使って製作しました。

しかし当時は中島少年にとってのプログラミングは、「マニュアルどおりに数字を入れると何かが動く。でもプログラミングが何だかわからない。」という手探り状態でした。でも1ヶ月もすると、「コンピュータってbyteを一度に全部見れずに、一個ずつしか見れないんじゃない?」と気づき始めました。それは人間だったら、「ステーキのにおいをかぐ→ステーキのイメージを思い浮かべる」のが、コンピュータは、「ステーキのにおいをかいでも、ステーキのイメージを思い浮かべられない」のと一緒のことなんだとひらめきました。

「NTT研究所からマイクロソフト時代」

早稲田大学修士課程終了後、教授の推薦を受けNTT研究所に入社する中島氏。しかし予想に反して仕事はプログラミングすることではなく、下請け会社に出すプログラミング用のフローチャートを作るだけ。高校2年生からプログラミングのバイトをして、当時すでに親の収入を超えていた(でも親にちゃっかり食べさせてもらっていた)中島氏にとっては、フローチャートを基にプログラミングしても意味がなく、プログラミングは自分で実際書かないとダメなことは身にしみてわかっていました。

そこで上の人にフローチャートはダメだと抗議しても、「お前は新人だから黙っとけ!」と一蹴されて終わってしまいました。このとき中島氏は仕事への失望と同時に、新聞でマイクロソフトが日本法人を立ち上げることを知り退社を決意しました。

退社するためNTT研究所の室長に辞表を出したところ、研究所と大学を巻き込んだ前代未門の大事件に発展し、大問題になってしまいましたが、やっとのことでNTT研究所を退社することができました。

そして1986年に中島氏はめでたくマイクロソフト日本法人に入社、そして3年後の1989年には当時2000人くらいしかいなかったマイクロソフトの本社に転勤となりました。

当時のマイクロソフトは、仕事面で言えば、仕様書関係なく「やったもの勝ち」「コード早く書いちゃったもん勝ち」という社風で、どんなに忙しい毎日でもWindows95を立ち上げた頃が一番楽しかった時代だったそうです。

その後OS開発に飽きた中島氏は、OS開発部門所属にもかかわらず、IEブラウザーを作っているチームに勝手に手伝いに押しかけ、その上チームがまだIE2.0を開発中なのに、Netscapeが3.0を開発中だからと、いきなりIE3.0を開発させて欲しいと交渉し、誰にも頼まれてないのに一人でIE3.0を作り始めてしまいました。

結果的に中島氏のIE3.0の登場によって、Netscapeのマーケットシェアを70%から30%に引き下げたので、自分の本来のOS開発の仕事をしていなくても誰からも文句を言われることはありませんでした。

しかしマイクロソフトがだんだん大きくなるにつれ、会社の方針と中島氏の信念にずれが生じ始めていました。ビルゲイツがミーティングを開いたときに、中島氏が

「計画性のないイノベーションをしないとダメです。3人規模のチームを100や200作ってそれぞれ勝手にイノベーションをさせて、その中のひとつが成功すればいいじゃないか。でないとネットの時代に勝てません。」

と提案すると、ビルゲイツは完全否定し、

「5年先を見て、人を300人投入して、マイクロソフトでしかできないことをやる。計画性のないイノベーションは、ベンチャーにやらせればいい。そしてもしイノベーションに成功したベンチャーが出たら、そのベンチャーを買収すればいい。」

と真っ向からビルゲイツと意見が食い違いマイクロソフトの方向性に失望してしまいました。

そこで当時マイクロソフトでナンバー4だったブラッドに相談すると、自分がベンチャーキャピタルを始めるので一緒にやらないかと誘われて2000年にマイクロソフトを退社することにしました。

その後中島氏は仕事柄いろんなベンチャーのビジネスプランを見る機会がありましたが、どのビジネスプランにもガッカリして、「これだったら自分でやったほうがいいのでは?」と自分でビジネスを立ち上げることにしました。

「UIEvolution時代」

さて自分でビジネスを立ち上げる決意をした中島氏でしたが、経営経験ゼロ。そこで知り合いに相談すると、

「弁護士だけはケチるな」

とアドバイスされました。そして自分でビジネスをしていくうちに、その意味が身にしみてわかるようになりました。

中島氏は知り合いのアドバイスに従ってこの分野に詳しい一流の弁護士を雇うことにしましたが、こっちがお客なのに

「うちはビジネスプランがいい客としか仕事をしない。」

といきなり上から目線で対応されてしまいます。そしてお金がないならベンチャーキャピタルが集まるまで弁護費用はツケでいいから、会社の2%くれと提案されたりと驚きの連続でした。

さらにこれから中島氏とその弁護士と、投資家集めのための猛勉強が始まりました。例えば起業したときの株については、Preferred Share(優先株)という、もしもの場合は投資家が一番先にお金を引き上げる権利がある株を投資家に与え、中島氏は一般株という何の優先権もない株を与えられことや、起業家と投資家の関係としては、中島氏は自分の人生やアイデアや情熱をビジネスに賭ける代わりに、投資家はビジネスにお金を援助し、お互いが利害関係を持っていることを勉強しました。

日本の投資では、第三機関に会社の価値を決めてもらい投資額を決めるそうですが、アメリカではアイデアと情熱だけで投資家が会社の価値を見出せば、ポンとお金を出してくれるのです。まさに交渉次第だとアメリカの投資家の柔軟さを学ぶことととなりました。

起業後の中島氏のCEOの一番の仕事はとにかく資金集めです。会社が潰れそうになったことも何度もあり、役員会議で自分の給料と重役の給料のカットを提案しましたが、重役たちはそれを拒否し、結局自分の給料をゼロにして、社員の人数も三分の一カットせざるを得なかった苦い経験もあります。中島氏にとって、今まで一緒に会社経営のために戦ってきた戦友だと思っていた重役たちとの体温差にガッカリしてしまった瞬間でした。

それでも会社は下降の一途をたどり、ついに中島氏は自分個人のお金をビジネスに突っ込み始め、この時点で投資家は中島氏を見放し、投資金を回収することだけを考えていました。

にっちもさっちもいかなくなった中島氏は、商社の投資部門に勤める大学時代の友人に投資をを依頼します。

2004年初め、アスキー時代のコネでやっと見つけた投資先がスクエアエニックスです。スクエアエニックスの和田氏とアメリカの投資家との顔合わせのミーティングの席で、和田氏がUIEvolutionを買っても良いとポロっと漏らすと、投資家たちの目の色が一気に変わりました。

これまでは潰れるのを待つだけで、投資金の回収を早く済ませたいと考えていた会社がスクエアエニックスに売れるかもしれないことで、投資家たちは「早く売れ売れ」コール、当時営業部門だったアメリカ人社員は、営業をストップさせ、周りからのプレッシャーで中島氏は会社を売らざるを得ない状況になってしまいました。

買収後の2007年にスクエアエニックスの子会社としてMobile Middlewareを作っていたUIEvolutionが再び経営難になり、スクエアエニックスから潰すしかないと言われたので、それなら安く譲ってくれるように中島氏は再びUIEvolutionを買い戻しました。その後中島氏はUIEvolution のCEOにはならずに、株主取締役に納まり毎日プログラミングに没頭しています。

中島氏からのアメリカで起業する人へのアドバイス:

「弁護士雇うときはケチるな!」

個人レベルのアドバイスは、日本的な「お受験→一流大学→上場企業内定→一生安定」というイージーモードな人生打ち破ること。企業レベルでのアドバイスは、企業の経営陣はイノベーションを唱え危機感だけは持っているが、実際は何も手を打たない古い体質を打破するのが大切だと言っていました。

それに対しアメリカでは、無駄な仕事(例えばコピー複合機のドライバの開発や保守など)をやらせるとどんどん人が辞めていく(特に優秀な人材から)という人材の流動性があり、その結果古い企業が潰れて、新しい企業がどんどん台頭します。このように常に企業は人材価値を高め続けることが大切だと語っていました。

次は会場からの質問コーナーです。例えば中島氏にこんな質問が投げかけられました。

アメリカで起業した中島氏の決断力は何に基づいているのか気になるところです。

Q:決断力について何を軸にしているのか?

A: いろんな情報源です。左脳で考える客観的数字でロジカルに考えても答えは出ません。

右脳に任せる。例えば、宝くじで儲けるか、株で儲けるかは、数字で比較できることで、左脳の仕事。でもマイクロソフトで仕事するか、ベンチャーを立ち上げるかは、数字では比較できない右脳の仕事。

Q:FacebookがWhatsAppを買収しましたが、190億ドルという評価額がおかしいと思いませんか?

A:WhatsAppの買収額をユーザー数で割ると35ドル前後。Facebookの評価額をユーザー数で割ると100ドル前後なので、Whatsapp買収により獲得するユーザーから見込める広告収入を考えると、そろばん計算上では、そうおかしくない額だと思います。

しかしFacebook離れが始まったと同時にInstagramが大きくなり、ユーザーを根こそぎ取られては困るので、FacebookはInstagramを買収しました。他に新しいSNSの会社が出現し、ユーザーのFacebook離れが始まるたびにその新興SNS企業を買収して生き残らなければならないので、今回のWhatsAppの買収も最後ではありません。

ひとたびFacebook離れが始まると、Facebookは買収を繰り返していくしかないので、人の流行り廃りに左右されると言う意味で危ない会社かも知れません。

それに比べてAmazonはすごいです。AmazonのFulfillment Centerは誰も追いつけないと思います。なのでAmazonにとってのWhatsAppは現れないと思います。Amazonはイケイケなので、将来的に世界のGDPの20%いくと思いますよ!

 質問コーナーに続き、中島氏が現在開発中のVideo Shaderのデモがありました。

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VideoShaderとは、普通の世界をアニメ化して、自分でフィルターを作ることができるアプリです。

こんな感じです。

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面白い画像やビデオが撮れると、バージョン2からはネットワーク機能があり、世界中の人々と画像やビデオだけでなく、フィルターもシェアできるようになるそうです。楽しみですね!

iPhoneとiPad用のVideoShaderのダウンロードはこちらからどうぞ(無料アプリですよ!)

https://itunes.apple.com/us/app/videoshader/id790784885?mt=8

最後は交流会。中島氏の元には、ディズニーランドのアトラクションのような長~い行列が。中島氏と直接交流できるチャンスなんてなかなかありませんからね!

ということで、中島聡氏の講演会にはたくさんの方々に参加いただき、大盛況でした。

これからもSIJPでは楽しいイベントを企画していくので、是非参加をお待ちしています~!

留学生に向けた就活イベント『先輩たちに聞く就活の極意』開催

1月30日に、SIJP(Seattle IT Japanese Professionals)が主催する学生向けイベント『先輩たちに聞く就活の極意』が開催されました!

いまや留学生の就活意識は非常に高いです。そこで今回、留学を就活に生かしたいと考えている留学生たちが特に意識する「英語力」「ボストン・キャリア・フォーラム」「アメリカで働くということ」について、SIJP のネットワークを駆使し、先輩たちが経験談を共有する場を設けることになりました。

ボストン・キャリア・フォーラム』とは、ボストンで毎年11月に行われる世界最大の日英バイリンガル・ジョブ・フェアのこと。いわゆる日本の新卒向けの就職活動で行われる “合同説明会” に似ています。

大きな特徴は、採用までのプロセスがものすごく早いことです。全部で3日間あるのですが、その間に内定が出る人もいます。また、企業によっては、最終面接を日本で行うところもあります。

ボストン・キャリア・フォーラムで内定を取るためには、必ずしも完璧なバイリンガルである必要はなくて、留学に来て半年くらいの時点でボスキャリに参加している人でも、内定をもらっている人はたくさんいます。

イベントでは、そんなボストン・キャリア・フォーラムで2013年に内定をもらった人たちが登壇して、「面接でどんなことを聞かれたか」「ボスキャリまでに行った準備」「ボスキャリまでにやるべきだったこと」「ボスキャリまでにやっていて良かったこと」などを話しました。イベント会場には60人くらい集まっていたのですが、メモを取る勢いがものすごかったです。

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また、「英語力」については、「社会で求められる英語力」を始め、TOEIC や TOEFL などの英語の資格で高得点を目指すコツや、英語を勉強する上でのモチベーションについて語られました。

SIJP Student Event

最後に登壇したのは、アメリカの大企業で働くお二人の社会人。

一人は、11月の SIJP の講演でもお話をされた米マイクロソフト本社 Operating System Group (OSG) のプリンシパルマネジャー、鷹松弘章さん。

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1994年よりロータス株式会社(現 IBM)の製品開発分野を歴任後、マイクロソフト株式会社(現日本マイクロソフト)を経て、2001年米国 Microsoft Corporation 入社。Windows Media Center、Windows Media Player、Windows Vista、Windows 7、Windows 8、Windows8.1 のリリースを手掛け、現在は Operating System 部門のプリンシパルマネージャーを務める。

もう一人は、米アマゾン本社で Elastic Load Balancing というウェブサービスの開発・運用を担当されているソフトウェアエンジニア、橋本幸司さん。

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2000年、大阪大学工学部情報工学学科博士課程を修了。同年に日立製作所に入社、日立研究所に配属される。2008年に同社を退職し、アメリカのジョージ・メイソン大学(George Mason University)MS ソフトウェアエンジニアリング学科に入学。2010年、Amazon.com, Inc. に入社。現在はソフトウェアエンジニアとして、同社のウェブサービスの開発・運用を担当する。

講演は『エンジニアとしてのキャリア -日本とアメリカの違い-』という題で、橋本さんが「日本とアメリカにおけるエンジニア事情の違い」「日本アメリカにおけるキャリアパスの違い」などについて対比をしながら話を進め、鷹松さんがマネジャーという視点で補足していくという見事なバランスで進みました。理系学生はもちろん、文系学生にとってもためになる話ばかりで、学生にも大好評。留学生のメモを取る勢いもさらに増していました。

留学生の中には、将来何らかの形で海外で仕事をしてみたいと考えている人がたくさんいます。今はビザがとても厳しいので、大半の人は留学後日本に帰国するのですが、アメリカになんとか残り続けられる可能性を模索している人も多いです。でも、鷹松さんのように外資系企業の日本オフィスを経て本社に来られる方や、橋本さんのように日本の会社でキャリアを積んだ後、一年発起してアメリカで挑戦される方もたくさんいらっしゃいます。

そういった方々から直接話を聞くことによって、留学生にとっては、就活について考えるだけでなく、「留学後にどう生きていきたいのか」を改めて具体的にイメージする機会になったのではないかと思います。お二人とも親しみやすい雰囲気を持っておられるので、講演後も多くの学生に囲まれていらっしゃいました。

SIJP では、2月21日にも『米国での起業体験について』と題した講演会を行います。ゲストはなんと、人気メールマガジン『週刊 Life is beautiful』でもお馴染みの、中島聡(@snakajima)さん。

960年北海道生まれ。アスキー・ラボラトリーズの一員として「CANDY」をはじめとする数多くのプログラムの開発や移植に大学在学中から携わり、早稲田大学大学院理工学研究科修了後にNTT(研究部門)に就職。86年のマイクロソフト日本法人設立を機会に同社へ転職し、89年に米国本社へ移籍。Windows95、同98及び Internet Explorer 3.0、同4.0の開発に携わる。2000年に退社し、ソフトウエア会社のUIEvolution,Incを設立した。現在はメルマガ「週刊 Life is beautiful」(出版はまぐまぐ)を執筆中。

via Seattle IT Japanese Professionals 講演会 「米国での起業体験について」… Registration, Bellevue – Eventbrite

シアトルにいらっしゃる方は、ぜひぜひご参加を〜!

2013年忘年会レポートです

Seattle IT Japanese Professionals(SIJP)は毎月第3金曜に活動を行っていますが、12月は一年の締めくくりということで、忘年会を開催しました!

お寿司、焼きそば、たこ焼きなど、日本食のケータリングがテーブルいっぱいに並べられ、6時半の開始時間前から会場のPSP, Incは大賑わい。

SIJP はシアトルの IT 関連企業に勤めている方、あるいは IT 関係の仕事に興味のある方に向けた交流の場ではありますが、IT に詳しくないと参加できないということはなく、楽しむ気さえあれば誰でも歓迎されます。IT 以外の職種の方の参加も増えていて、今回の忘年会には IT 関係の案件を担当する弁護士さんやベンチャー企業の社長さんなども参加されていました。「IT」や「シアトル」など、共通の話題を通して初対面の人とでもすぐに打ち解けられるのが SIJP の良いところです。

忘年会では、交流をさらに盛り上げるべく豪華商品が当たるラッフルも用意されていましたが、その商品の数がまた多いこと!

全日空(ANA)様から機内用ブランケットと荷物重量計測器のセットや焼酎、ユナイテッド航空様からマイレージ3000マイル分や B787 飛行機模型、Ginga Wireless様から SIM カードなどをご提供いただき、他にもさまざまな企業商品がずらり。なんと、ほぼ全員が何かしらのプレゼントを持って帰る結果となりました。

商品が当たった人は、一人ひとり「エレベーター・ピッチ」を披露。

エレベーター・ピッチとは、ITの本拠地である米シリコンバレーが発祥。ここでは、次のGoogleを目指す多くの起業家たちが日に数十件の投資案件を目にするプロの投資家たちに自分のビジネスプランをアピールします。

 そんな中、「起業家はエレベーターの中で投資家に会ったら、自分のビジネスプランを30秒で的確に伝えられなければ未来はない」と言われてきました。これがエレベーター・ピッチ(“ピッチ”は「説明する」の意味)なのです。結果を出して定時に帰る時短仕事術:30秒、250字で魅力を伝える――エレベーター・ピッチとは – 誠 Biz.ID

30秒でいかに自分をアピールし、ビジネスや取組みに興味を持ってもらうか。それは単に「商品が当たった人は、簡単に自己紹介をしてください」と言われるよりも緊張します。

でも、会長と副会長の漫才のような楽しい掛け合いによる進行のもと、和気あいあいとした雰囲気の中で皆さんうまく職業やお人柄をアピールされて、エレベーター・ピッチも大盛り上がり。その後の交流がさらに活発になったのは、言うまでもありません。

午後6時半から始まった忘年会は10時頃まで続き、おかげさまで良い年末の締めくくりを迎えることができました。

2014年はさっそく2月の第3金曜に大きな講演会イベントを開催する予定ですので、興味のある方はぜひご参加ください!

11月の講演会のレポートです

11月22日(金)に、シアトルのIT 関係に勤めている人のためのネットワーキングの会 Seattle IT Japanese Professionals は今回PSPINCと共催で次の通り講演会及び交流会を開催しました。
その講演会のレポートです。

「会社に行くのはもう一人の自分」世の中には会社に行く前にあえて服を一枚多く羽織り、会社の入り口でそれを脱ぐ人がいるという。この人は決して、異様に寒がりなわけではない。家から着てきたこの上着は、”本当の自分”というアイデンティティなのである。そのアイデンティティを脱ぎ捨て、会社に足を踏み入れることにより、”会社の自分”になれるのだ。この話を教えてくれたのは鷹松弘章さんという方である。鷹松氏は、1994年よりロータス株式会社の製品開発分野を歴任後、日本マイクロソフトを経て、2001年に米国Microsoft Corporationに入社、その後Exchange Server, Windows Media Center, Windows Media Player, Windows Vista, Windows 7を手掛け、現在Windows部門のプリンシパルマネージャーを務めるITのプロフェッショナルだ。11月22日に行われたSeattle IT Japanese Professionals (SIJP)のイベントでは、鷹松氏がアメリカで働く日本人が陥りやすい問題について、エンジニアとマネージャーの関係を例に講演を行ってくれた。ベルビュー市にあるPSPINCのオフィスで行われたこのイベントには、15年以上IT業界に身を置いたベテラン日本人エンジニアや日本から渡米したばかりの留学生など、40人ほどが鷹松氏の講演を聞きに集まった。常時質問自由なカジュアルな雰囲気で始まったこの会の冒頭に鷹松氏はこう問いかける、「日本を出て何年くらい経ちますか?」 5年、10年、20年、年数が増えるごとに手をあげる人数は減っていく。これは、いかにアメリカで日本人労働者が成功するのが難しいかを物語っている。

エンジニアという人種は、自分の技術にプライドを持っていて、悪いフィードバックを受けるとすぐにヘソを曲げてしまう傾向があるそうだ。これはエンジニアのみならず、ストレートな表現を嫌う日本人には多く当てはまるのではないだろうか。それ故にマネージャー達も何とか仕事をしてもらおうと衝突を避け、いつまで経ってもお互いの溝は埋まらない。鷹松氏はマネージャーの視点からこう語る、「悪いフィードバックは最高のプレゼント」。欧米人などの非日系人はその点、すごくハングリーで自らフィードバックを求めどんどん改善していく。そうすることにより、エンジニアとマネージャーが認識しているパフォーマンスのレベルの違いを擦り合わせながら、距離を縮めていくことが出来る。こういった歩み寄りの機会を設けるために、週に一回ないし月に一回でもOne to Oneでマネージャーと自分のパフォーマンスについて話し合うのが理想的なのだという。日本人がアメリカで働く上で、こういったアドバイスを受け入れる許容力が必要なのである。

また、読者の中にスキップレベル(上司の上司)と定期的に会談し、アドバイスを受けている方がいるだろうか。もしスキップレベルとも深く関わり、その視点を理解している人は、自分の直属の上司をも喜ばせることが出来る人間である。鷹松氏によれば、このように”会社”という山の標高の高いところにいる人間からみた景色を知ることにより、山の中腹にいる人間(自分の上司)がすべきこと、そして山の麓にいる自分がすべきことが見えてくるそうだ。もし自分が上司のすべきことを少しでも担えるようになれば、さらに上司が高いレベルの仕事ができ、スキップレベルがその上の仕事をこなせる。この正のスパイラルを生む仕組みを成し得るには、やはり日頃のコミュニケーションが欠かせない。

鷹松氏は、自分のマネージャーやスキップレベルの人間と良好な関係を築き、評価をあげるために大事なのが、こだわりへの執着をなくすことだと語る。特にエンジニアには自分を曲げたがらない人間が多いようだが、柔軟な姿勢で仕事と割り切り本当に会社がしたいことを実行出来る人は、会社から見たパフォーマンスレベルが総じて高い。 “新たな自分”を会社に確立することが重要なのだ。会社の中には、自分のこだわりもプライドも持ち込まず、会社としてすべき事を実行するのが”会社の自分”なのである。その点から、常に自分のパフォーマンスを調整し、会社のミッションに帳尻合わせていくためには、上で述べたOne to Oneのミーティングやスキップレベルとのコミュニケーションでフィードバックを受けることが大切なのである。そうすることによって、日本人がアメリカで仕事をしていく上で他国籍の労働者と同等、またはそれ以上の評価を受けることを可能になるのである。