スコット津村氏による「型破りExecutive Producerによるゲームプロデュース裏話」講演会&交流会開催!会場は大爆笑の渦!

今回はベルビューでPSP.Incで行われたスコット津村氏の講演会のレポートです。いつものように受付を済ませ、会場に入るとすでに満席です。ざっと会場を見渡すと、学生さんや社会人の人たちだけでなく女性の参加者も目立ち、参加者の幅の広さが窺えます。講演会のたびに女性参加者の数が増えてきてるような印象を受けていますが、これからもSIJPではいろんな方の参加を絶賛大歓迎中です!

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さて講演会の前のお約束の腹ごしらえ。今回の軽食はなんとゴージャスなお寿司!日本人のDNAが騒ぎ出すような握りずしや巻き寿司をほおばりながら、開演前のプチ交流会です。会場のサイズがちょうど良く、お隣の人とも交流しやすい雰囲気。

プチ交流会後はいよいよ講演開始です。椅子の数も足りなくなり立ち見が出るほどの満席の中、待ちに待ったスコット津村氏の登場です!ロマンスグレーの似合うダンディーな印象のスコット氏を前に、会場からの暖かい拍手でお出迎えです。スコット氏は御歳72歳なのですが、まったくそんな風に見えず非常に若々しい印象です。そんなスコット氏が社会に出て50年間歩んできた波乱万丈の人生を中心に、三部構成のインタビュー形式の講演会の始まりです。どんな面白いお話が聞けるのでしょうか。

大学卒業後は元祖フリーター生活、そしてスコット氏のダンディーさの秘密とは?

スコット氏は大学卒業後10年間でいろいろな仕事をし、今で言うところの元祖フリーターのような生活をしていました。当時はネットもなく、新聞の就職欄にいろいろな仕事の求人があり、ワクワクしながら多岐に渡る仕事に挑戦して、おそらく18回は仕事を変えました。しかし単なるアルバイトでなく正社員としての仕事で、商品相場のセールス、アパレル、貿易小物、運転手、配管、製缶、土木、建築、店頭販売、内装、事務用品などなど、転居も12回しながら興味という目的だけで仕事を変えていました。

ひとつの仕事が大体わかってくると次の仕事を探し、そのうち自分の将来に向かって続けるべき仕事が見つかるかもしれないといろいろな仕事の可能性を模索していました。この頃からスコット氏の絶え間ない好奇心は培われていたようです。

そんなスコット氏の最初の仕事は、神戸外国倶楽部でのバーテンダーの仕事でした。神戸外国倶楽部とは、1869年(明治2年)設立の外交官たちの社交クラブという歴史あるクラブです。しかし来る日も来る日もバーテンとして仕事はさせてもらえず、ひたすら氷割りとビール運びの下っ端仕事をする毎日でした。しかしそんな下っ端仕事の中でも、外交官の立ち居振る舞いや付き合い方などを学び、一般人では経験できないような違う世界を垣間見ることができる貴重な体験をしました。

ある日神戸外国倶楽部の大広間でパーティーが開催されたときのこと、スコット氏は衝撃的なある出来事に遭遇しました。その部屋は重厚な雰囲気で、床が油でピカピカに磨き上げられていました。その場所でとてもかっこいい紳士のイギリス総領事がしゃがみこんで子供と話をしていました。ところが子供が領事の体を押してしまい、彼は黒光りする床にしりもちをついてしまいました。そして高級なスーツのおしりには油がベットリと付いてしまったので、すぐに立ち上がり、それを拭き取るものかと思っていました。

ところがスコット氏の予想に反して、領事はそのままその子供と床の上で遊び始めたのです。スコット氏はこの領事の何があっても動揺しない度量の深さと、紳士的な振る舞いにとても感動し、騎士やSirという名の付く人々に深い興味を持ち、スコットランドの詩人、小説家であるサー・ウォルター・スコットの中世時代の騎士の振る舞いやその哲学が書いてある詩や小説を読んで、自分もこうありたいと憧れるようになりました。どうりで現在のスコット氏がとてもダンディーな雰囲気を醸し出しているわけですね。

ちなみにスコット氏の日本名は「ケンジ」なのですが、神戸外国倶楽部での出来事から20年後に渡米する際、尊敬する友人からたまたま「スコット」という名前を付けてもらい、それ以来「スコット」を通名として使い、様々な公的書類にも「Scott Tsumura」と表記するようになったそうです。何か名前も運命的だったのですね。

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ゲーム業界に入ったキッカケは、裏社会?!

時が経ってスコット氏がペンキ屋で働いていたころのことです。以前建設業の職人派遣の会社を一緒に作っていた友人から1976年頃のある日こんな電話がありました。

「けんちゃん、おもしろい仕事があるよ!裏社会にもある程度関係してくる仕事だけどね!」

裏社会関係の仕事と言えば、借金取立てや総会屋など真っ黒なイメージしかないのですが、一体スコット氏の友人はどんな仕事を持ってきたのでしょうか?

友人が持ってきた裏社会関係の仕事とは、電気回路や確率などの専門家を雇い、ドイツ製のメダル式ゲーム機ロタミントに似たような機械を自分たちで作り、それをそういう連中に売ることでした。

巷ではロタミントというメダル式ゲーム機を輸入して100円玉で遊べるように改造し、当たれば100円玉が払い出されるような機械が出回っていました。そしてそれを喫茶店などに貸し出して、利益を喫茶店と折半する商売が存在しました。改造ロタミントは、驚くことになんと当時で一台一か月150万円という驚異的な売り上げを叩き出すスーパー賭博機だったのです。そのような機械のレンタル業を営んでいた人たちの多くが荒稼ぎをもくろむ裏社会の人々だったということです。そんなゲーム機(改造前の機械そのものは模擬コイン(メダル)を使う合法ゲーム機)を開発して売るのはなかなかスリリングな仕事だったそうです。

そんな魔法の賭博機、改造ロタミントとはパチンコのような箱型をしていて、並んだ数字を当てるというシンプルなものでした。こんな感じで、的が並んだルーレット風、あるいは検眼機のようにも見えます。ロタミントビジネスは順調でしたが、1年後に風営法が改正されてからは現金IN現金OUTは違法で賭博ができなくなり、このビジネスも終焉を迎えてしまうのです。

風営法改正後、ロタミント系ゲーム機は規制の流れを受けて消えていき、その代わりに健全なアーケードゲーム機が登場して同じ場所に置かれるようになりました。そしてこの頃から町にアーケード場が設置されるようにもなったのです。これにビジネスチャンスを見出し、スコット氏はアーケードゲーム業界に足を踏み入れることになります。

ここでちょっと昭和の話になりますが、1976~1977年にATARIのブロックくずし、1978年には喫茶店のテーブルでインベーダーゲームが登場しました。ロタミントからアーケードのテレビゲーム、テレビゲームから任天堂の家庭用ゲーム、そして家庭用ゲームから現在の携帯型ゲーム機やスマートフォーンとゲームの形は様々に進化してきたのです。

その後スコット氏は、カプコンの辻本氏が最初に立ち上げたIPM(その後アイレムに改名)という会社で海外部とゲームソフト開発部を立ち上げ、ムーンパトロール、10ヤードファイト、ジッピーレース、スパルタンXなどを作り、やがて移植したスペランカーやロードランナーなど名作を残すことになったスコット氏ですが、当時はアーケードゲーム業界立ち上げ時の尾を引いて、たびたび裏社会の人たちとゲーム機設置の場所取りでぶつかり合うこともあったそうです。

1983年にはファミコン登場。ドンキーコングなど、任天堂もアーケードゲームを作っていましたが、任天堂の山内氏はアーケードゲームを止めて、家庭用ゲームにいこうと方針を決定。結果、ドンキーコングやマリオブラザーズなどでゲームを家庭に持ち込むことに成功しました。

その後1987年にPCエンジン(NECの画期的CG機能を持つ家庭用ゲーム16ビット機)が発売されました。既にファミコンで家庭用ゲームのマーケットはできていたし、この高性能ゲーム機を見て、業務用のアーケードTVゲームではなく家庭用ゲームの時代が必ずくると確信したそうです。

その頃スコット氏はR-Typeの開発から外れて、新規事業やライセンスの仕事をしていたのですが、NECとハドソンからアーケードで大ヒットしたR-TypeをPCエンジンに載せたいと要望が来たので、是非家庭用のPCエンジンにR-Typeを移植したいと会社に提案しましたが、動作もグラフィックも同等のものが家庭用になれば、アーケード業界はつぶれてしまうと猛反対されました。

世の中が変わると信じて何とか会社を説得し「どうせやるならアーケードと同じクオリティの家庭用ができるんだったらいいよ。」と言われて、ハドソンと共に必死に移植開発し、その結果ほぼ完璧な家庭用ゲーム機版R-Typeができました。これがスコット氏にとっての日本での最後の仕事でした。

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渡米後にずっとアメリカに残る決心をしたスコット氏

スペランカーやロードランナーのライセンスの縁で親しくなった米国のブローダーバンド社から日本のPCゲームをIBMやアップルに移植して自社の販売網で欧米向けに売りたいと要請があり、スコット氏は日本の企業を一社づつ訪問して出資を募り、晴れてサンフランシスコにブローダーバンドと日本企業13社のジョイントベンチャーの立ち上げに関わりました。そしてその設立と社長として会社運営のため、日本からアメリカに移りました。新会社の目的は、参加した13社からソフトを仕入れ、アメリカで移植してブロードバンド社から発売することでした。

当初スコット氏のアメリカ滞在は1年くらいの予定でしたが、そんなスコット氏がアメリカでもうちょっとやりたいと思ったキッカケはテトリスです。テトリスは1984年にソビエト連邦でアレクシー・パジトノフにより開発された誰もが知る有名なゲームで、日本では1988年にセガがテトリスをアーケードで出して大ヒッしました。そして1988年にはBPSからPCとファミコン版が発売されました。

1989年に任天堂ゲームボーイが出ると、BPS日本のヘンク・ロジャース氏にBPSがファミコンで開発、発売したテトリスをゲームボーイで売りたいと任天堂から提案があり、テトリスの版権のことでヘンク氏が崩壊前のソ連に飛び、アレクシーを探し出します。しかし当時ソ連は共産主義国家なので、誰かが何かを発明したとしても、権利は個人のものにはなりません。当然ながらテトリスの大元の権利を所持していたのは、アレクシーでなくソ連の国務機関アカデミーソフトです。そして、アカデミーソフトからの委託でライセンス業務を担当していたのが、同じくソ連の海外貿易協会ELORG(エローグ)という組織です。

ヘンク氏は、当時エローグからテトリスのライセンスを受けていたとするアンドロメダソフト、ミラーソフト、アタリ、テンゲンがIBMのPCライセンス契約はしたが、PC以外の契約はしていないとエローグから情報を得ました。そこですかさず任天堂アメリカの荒川社長、ハワードリンカーン氏をモスクワに呼び、携帯用を含む家庭用テトリスの世界独占開発販売権の契約をエローグと結ぶことができました。この独占契約のため、セガは任天堂にメガドライブ(16ビット機)のビジネスチャンスを潰されて、それ以降セガファンと任天堂ファンに分かれて対立することになります。

その頃ヘンク・ロジャース氏と共にBullet-Proof Software(BPS USA)社をシアトルに立ち上げたスコット氏によると、このソ連でのライセンス契約時には様々な苦労があったそうです。1991年ソ連崩壊、共産党解体後のロシア経済はどん底で、スコット氏がアレクシー氏とともに他のテトリス開発関係者に会いに行く際には、マシンガンを持った護衛を雇うほどでした。モスクワ駅には浮浪者がたくさんたむろしていて、スコット氏はスーツケースごと追いはぎに遭いそうになったり、セントピータースバーグへの寝台車に乗ったときには部屋の鍵をピッキングされないように、鍵を固定する木製のサイコロのようなものを車掌からもらったりしました。さらに関係者の一人である大学教授に会いに行ったときには夜になって、建物の中の電気がなく真っ暗で中がまったく見えないので手探りで教授の部屋までたどり着き、部屋を開けると、ろうそくの火で明かりを灯していたというくらい混乱した時代でした。

裏社会にかかわる商売からアーケード、そして家庭用ゲームへと変化していき、その後テトリスとの出会いとゲーム業界の始まりからすべてを経験してきたスコット氏。レポートには書ききれないほど貴重な経験をされてきたのですね。アメリカへ移住以来勤め先を11社変え、転居も6回したそうです。今度また講演の機会があればそんな話も聞きたいものです。

スペランカーについて

スコット氏がスペランカーに興味を持った理由は、地底探検というテーマがおもしろかったからだそうです。

会場からは、

「どうしてロープがちょっとずれると死ぬのか?」

「どうして階段を一段踏み外しただけで死ぬのか?」

というその理不尽な死に方に納得のいかない参加者から質問の嵐が。そんな質問への答えは、「わざとスペランカーをファミコンに移植するときに難しくした。」でした。ではなぜ難しくしたのか?その理由は、家庭用ゲームとアーケードゲームとの比較に起因しています。

「家庭用は買ってしまえばゲームは自分の物になり何時間でもプレイできるけど、アーケードは時間制限やライブ数があり、ゲームオーバーになればコインを追加投入しなければならないので、プレイを続行できるシステムが全く違うのです。そしてアーケードゲームは100円入れてから1~2分でゲームのおもしろさや、またチャレンジしたいという気持ちをプレイヤーに持たせないと商売にならないゲーム作りの厳しさがあります。当時の家庭用ゲームはリプレイしたくなる仕掛けが生ぬるく、これからもっとやりたい、挑戦したいという気持ちが湧かなくなるものが多かったのです。」

「スコット氏のゲームは比較的難しい」というコメントが参加者からありましたが、それに対してスコット氏のゲームプロデューサー哲学は、

「ゲームはプレイヤーが学習して、クリアして達成感を得るのが目的です。最初はすぐゲームオーバーになりますが、何度もプレイする内にクリア出来る方法を会得し、その上自分なりの遊び方を創り出すこともできるのです。」

スコット氏自身は、プレイヤーとしてスペランカーは難しすぎるし、自分はプレイするのが下手だし頑張り屋じゃないから好きではないそうです。でも将棋のように外野でプレイヤーがどういう遊び方をしているかとか、プレイヤーの心情に興味があり、スペランカーを誰かがプレイしているのを見るのは大好きなのだそうです。

趣味の写真とスコット流撮影テクニック

さて第三部はスコット氏の趣味の写真の話です。スクリーンにスコット氏が撮影した写真が何枚か映し出され、一枚一枚の写真のエピソードについてお話していただきました。町で自分が気になる人、しぐさ、風景、光、影など被写体からシグナルが入ってきたようなものを撮影しているそうです。

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日本にいるときはライフル射撃をされていて、標的(被写体)があり、銃を構える(カメラを構える)、そしてトリガーを引いて撃つ(シャッターボタンを押して撮る)という点で、ライフルとカメラは似ていると二つの共通点を解説されていました。

ヨドバシカメラのサイトではTheWind from Seattleという写真エッセイを連載されていて、スコット氏の写真は下のリンクからご覧いただけます。どの写真もポストカードやポスターになってもおかしくない、芸術的ですばらしい作品ばかりです。さらにスコット氏はブログも開設されています。

ネットでは公開できませんが、講演会ではスコット流ストリートスナップ撮影オリジナルテクニックも公開され、その大胆な撮影手法に会場は大爆笑でした!

交流会&スペランカーデモ

講演会の後は恒例の交流会とスペランカーデモです。

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別室では実際にスペランカーがプレイできるスペランカーデモがあり、リポーターも挑戦してみました。

昭和の探検家と言えば川口浩ですが、スペランカーも負けていませんよ!しょっぱなに出てくる岩をどうやって突破するのかわからず地底をウロウロしていると、紫色のお化けが出てきて逃げ場もなく即死。さらに風雲たけし城ばりの大岩が容赦なく襲ってきたり、微調整を誤っただけでも理不尽(?)に即死して、噂どおりイライラMAX。マリオのような調子でプレイすると大間違いです。でもなぜかそのイライラが「絶対突破してやる!」という使命感に変わってくる不思議なゲームです。

ちなみにスペランカーをプレイしたことのない方はこちらの動画をどうぞ。思わず嫁さんプレイヤーのとまどいの声と、動画を見ている自分の声がハモりそうです。

【嫁の挑戦2】今度はスペランカーを嫁にやらせてみた【声入り】

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=6Sf_6Kf7dBM&w=420&h=315]

今回のスコット氏の講演会は大盛況でした。見た目はダンディーなスコット氏でしたが、講演中はおもしろい話をたくさんされるのでどんどん引きこまれ、会場は常に笑いに包まれていました。スコット氏の様々な仕事経験、絶え間ない好奇心、決断力、行動力、そしてバイタリティと、私たちの世代にとって学ぶことが多く、インスピレーションの種をたくさんいただきました。

さて5月の講演会は、シアトルで起業した眼科医窪田良氏の講演会と交流会です。5月16日(金)開催で、現在チケット好評売出し中です。お時間のある方は是非お越しください~!

http://www.eventbrite.com/e/seattle-it-japanese-professionals-tickets-9982757697